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東京光線メディカル

沿 革

昭和7年11月

宇都宮義真が、光線治療器を用いて病弱の長男義和の治療を行い、その卓越した治療効果に感銘を受け、生涯の業とすることを決意。

東京光線療法研究所の誕生。

昭和8年5月

芝白金台町にて、光線治療所を開設。

以後、日本における光線治療の草分け的な存在として、多くの患者の治療にあたる傍ら、光線療法の普及に尽力する。

昭和9年1月15日

機関誌「光線」発行。

光線治療器「アナザーサン」の独自開発に成功。

発光方式は、新たな発想の正面対向式とし、自動接近式の高級光線治療器として荒井製作所にて製造。カーボンは、当初シーメンス社(独)製を使用するも、その後、コンラージ社(独)製に変更。

昭和9年12月

医学博士 本多秀貫氏の顧問就任。

昭和10年3月5日

機関誌名を「光と熱」に変更。

同時に、光線治療器名も「サナモア(SANAMOI)」に変更した。

昭和10年7月

治療所の募集に加え、積極的に光線治療士の養成事業を開始。

この頃、日本治療師会(現・全国療術師協会)に参加。

昭和10年12月

東京光線メディカル

光線療法の解説書として「光線療法提要」を発行。

その後、関連書籍として、「健康と光線」「光線療法について」「サナモア治療法説明書」「サナモア体験感想集」「足と健康」「病気は光線で直せ」を出版。

昭和11年12月

事業拡大にともない、光線治療所を芝二本榎本町に移転。

従業員も増員し、戦前の最盛期を迎える。

昭和13年

医療用カーボンを国産に切り替えるため、揖斐川電気株式会社に依頼。

工場長 永井氏(後に監査役)と協力し数種類を試作し、スペクトル写真を撮影。

理化学研究所 二神博士の光電管を応用した光線測定器にて測定。

昭和17年頃

東京光線メディカル

有楽町の東京都電気奨励館にサナモアを陳列販売。

日本橋の大成商会の取り扱いで、支那、満州、朝鮮、台湾、フィリピン、チリ等に光線治療器を輸出。

戦時中、陸海軍の強制でサーチライト用カーボン以外の製造を禁止されたが、医療用カーボンのみ製造継続を許可されていた。

昭和19年6月

宇都宮義真が第二次世界大戦召集のため、事業は中断。

昭和21年6月

復員後、東京光線療法研究所の再建に注力。

昭和22年

全国療術師協会理事に宇都宮義真が就任。

昭和23年12月

東京光線療法研究所の再出発に向け、大井森下町に拠点を作る。

揖斐川電気工業株式会社にカーボン製造再開の交渉に行った際、須崎氏より、東京光線療法研究所以外の競合他社からの医療用カーボン製造依頼を断っていたと知らされる。

光線治療器は、自動装置のない7号器(支柱式)と8号器(卓上式)の2機種にしぼり発売することを決定。

実用新案は、戦前10数件もあったが、戦後改めて2件(投影板装置、排気孔装置)を取得。

昭和25年1月1日

機関誌「健康と光線」第1号を発行。サナモアをSANAMOREに変更。

昭和28年

全国療術師協会理事長に宇都宮義真が就任(昭和50年まで)。

昭和51年1月31日

株式会社 東京光線療法研究所の設立。初代代表に宇都宮義真が就任。

昭和52年10月26日

生涯を光線療法の普及にかけた初代代表 宇都宮義真死去。享年78歳。

これにともない、二代目代表に宇都宮光明が就任。

東京光線メディカル

昭和56年

揖斐川電気工業 株式会社(現イビデン 株式会社)が、接続式医療用カーボン(ジョイントカーボン)の開発に国内で初めて成功し特許を出願。

昭和62年

イビデン 株式会社と共同で、全自動光線治療器はつらつさん1号の開発に成功し特許を出願。

昭和63年10月1日

書籍「光線療法学」改訂増補版 (宇都宮光明 著)の発刊。

平成12年9月1日

光線治療の拠点としてサナモア光線治療院を開設。

院長には宇都宮正範が就任。

平成27年12月

宇都宮光明の退任にともない、三代目代表に宇都宮正範が就任。

平成28年7月1日

東京光線メディカル

社名を株式会社 東京光線メディカルに、光線治療院名をサナモア治療院ソレイユに変更。同時に本社を移転。

令和4年3月30日

サンアモーレとして、リニューアルオープン。

今日に至る。

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